死ぬ前に後悔しなさそう
せっかくこのサイトがブログではなく地層ということになったので、もう少し雑に雑な記事を書いて積み重ねていこうということで、雑な自分語りの記事を書いてみるわね。
今回は私は何となく死ぬときにあまり後悔しない気がするという話でもしようかな、と。
「死ぬときに後悔ないように生きる」というと、自由にやりたいことをやって生きるようなイメージもあるが、私の場合は別にやり残したことがなくなるくらい自由に生きているわけではない。 が、やり残したことがいくらあっても、別に私はそんな後悔しない気がしている。
結局、どうやって生きたってやり残しは発生するのだからしょうがないと諦めている感じがする。 しかし、これは別に自暴自棄になって何やったって無駄なんだと思っているわけでもない。 何をやろうと生は無駄だ、みたいなことは思っていなくて普通に生きることは楽しんでいるけれども、それはそれとして死ぬときは死ぬだろうし、うまくいかないことやできなかったことはあるのはそんなもんだよなあと思っている。
世の中には何かに後悔し続けながら過ごしている人もいるのだと思うけど、私にはそこまで 1 つのことを後悔し続けられるほどの執着心を持つことができない。 何かに執着するのは疲れるし体力がいることで、私にはそこまでの体力がないのだと思う。
そんな感じで私はあまり後悔をしない、という趣旨のことを書こうと思ったのだが、書いているうちに実は多少は後悔しているかもしれないという気がしてきた。 しかしその後悔が割と自分の中でどうでもよいことである、と言った方が正しい気がしてきた。 後悔をしないんじゃなくて、後悔するようなことはあるのだけど割とその後悔が割とすぐに別にどうでもよくなる、と言った方が正確かもしれない。 そして死ぬ間際になっても、後悔していることを考え続けて死ぬということもないだろうなあと。
後悔するような出来事があったとしても、別にその後悔に感情が釘付けにならない感じがしている。 後悔することがあっても、後悔する感情に自分の頭の中がすべて支配されて後悔に苛まれるというの、あまり良い気分ではないと思う。 別に後悔の感情に釘付けになっても愉快なことはないのだから、釘付けになるメリットはあんまりない気がしている。
これは自分の感情をある程度メタ的に見るという感覚かもしれない。 後悔している感情と同時に、後悔している自分がいることに気がつく。 そうやって気がついたら、この後悔している瞬間を未来の別の楽しいことのために時間を振り分けたほうが良いことにも気がつく。 後悔している時間が無駄だなあと思うわけである。
まあ、別に感情を持っている自分をメタ的に見れたからといって、だからといって自分が感情から完璧に解放されるということはなく。 悲しいときに悲しんでいる自分を見つけても、それでも悲しいのを抑えることがいつでもできるかというとそうではないし、別に抑える必要はないだろうけれども。 でも、自分の何か巨大な感情に完全に釘付けになって無為に時間を過ごしたり苦しんだままでずっと過ごしたりするだけではなく、一歩引いてそういう感情を持っている自分を認識することができると少し意識が変わると思うし、私はそういう一歩引くのはなぜかできる気がする。
悲しみも後悔もメタ的に自分がそういう感情を持っていることを認識したからといって、だからといって簡単にそこから解脱できるわけではないけれども。 でも、そうやって自分がどういう感情を持っているかをメタ的な目線からちょっと見てみるというのをできるようになっていると、解脱とまでは言わないがある程度感情に振り回されなくなり多少の自由が生まれるような気もする。
そうやって、考えるのが面倒なことや気分が悪くなるようなことなどばっかりに釘付けになることを避けられるようになったが、これはこれで何か失ってるものがないか心配ではある。 特に、最近はもう何かについて真剣に物事を悩むことがなくなってしまって、それはそれでええんかという気もしないでもない。
まあ、あとは死ぬときに後悔するかどうか以前に、死ぬときに後悔する時間があるかどうかも不明だけどね。 ベッドで静かに死んでいくなら、昔のことを思い出して後悔する時間もあるだろうけれども、運悪く交通事故とか不慮の事故でサクッと死んでしまうことだってあるだろうし。