春告げ抹茶ホイップ

「今更どう映像技法をひねり出すのか?」を見た

ちょっと前に上がっていた橋本麦さんの多摩美術大学の講義の動画を拝見しました。 たいへん興味深いおはなしでして。

せっかく興味深いお話を聞いていろいろ考えたので、適当に雑多に短文の感想を羅列しておこうかなと思います。 あまり深い考察とか思考とかもなく、ただその場で思いついたことをメモっただけのものですが。


コマ撮りなどで物理的に存在するアナログなものを扱っているのが、基本的にコンピューターで閉じることしかやっていない私から見たら個人的に興味深く見えました。

そして一方で道具を作るとなるとハード側だけでなくソフト側をゴリゴリ作っているんも印象的です。 物理の世界から計算機のなかのソフトウェアまで、それらを横断してツールを作っているというのは面白い活動だなあと思いました。


途中で述べていたりあるいは質疑応答でも述べていたような、数学などでの「直感」を精緻に捉える感覚は、私自身は数学は専門でもなんでもないですがすごく「わかる〜!」という感じでした。

数学を工学でもアートでもなんでも「応用」する場面に置いてはそういう直感とかの感覚で数式のお気持ちを掴んでいることが効いてきますよね。 やっぱり数学には数式でこねくり回して物事を難しくしているのではなく、どういうお気持ちなのかという直感とかビジュアル的な感覚で掴む部分は結構あるので、めっちゃわかる話だなあと思って聞いていました。

そして、その案外数学は直感も使っているということが、実は数学とかあるいはいわゆる「理系」の分野外の人に対して説明される機会があんまりなかったのかもなとか思うと、そういう感覚を美術系の場所でお話するというのは貴重なお話なのかなあと思いました。

話は脱線しますが、数学はそういう直感の部分とそれを精緻に捉えて他人と齟齬なく共有する言語としての正確な記述だったり、論理の足元をきちんと固めて地に脚付いた理論にするための数式や言語があるというのが強いのだろうなあと感じました。

どうしてもお気持ちや直感だけではフワついた議論になってしまいますが、数学だと例えば浅瀬で工学側の人間がちょっと数学者の作った数式を借りてくる、ということであったとしても、裏側にはちゃんと数学の理論があって支えられている感じがしっかりとした土台があるように感じられるのが良さのように思います。 直感とかビジュアル的な感覚で捉えられるのが一方でちゃんとした理屈で固める作業も行われている、というのは数学とかの学問の良いところだなあと。 なんかすごい雑な話なんで、ちゃんと数学やっているひとに怒られそうな適当な物言いですが……。


話の本筋とはあまり関係ないですが、個人的には麦さんが何度か言ってる 「〇〇って思いついたんですね」 って言うのが面白い表現だなあと思いました。 「加工プロセスそのものものでアニメーションするっていうのは 3D プリンターでもできるんじゃないかって思いついたんですね」みたいな。

思いついたという表現を使うと、まるでぱっと閃いたとか、ジャストアイデアみたいな響きを持つように聞こえますが実際のところはどうなのでしょうね。

もっといろんな思考がありそうで、でも一方でやっぱり「思いついて」もいるんだろうなあと。

私自身がなにか思いつくときは、天啓のように思いつくというよりも日々いろいろ考えていたことが頭のキャッシュに残っていて、そういうのがまとまっていって臨界点を超えて、それで「こういうことをやってみようか」というのが次第にまとまってくるとか。 あるいはもっと明確にこういうことをやってみたいということをより詳細をつめていくと少しずついつの間にかオリジナリティあることにたどり着いているとか、そういう感じだったりします。

やっていることが面白いだけにどういう風に「思いついて」行動に移していくのかとかの思考の過程とかを覗いてみたい感覚になりました。 「思いつく」という言葉に圧縮された思考の過程は言語化されるものでもない気もしますが、圧縮や何かしらのギャップが詰まった不思議な言葉だなあと面白く感じました。

私は一体アイデアをどのように「思いついて」いるのでしょうね?


個人的には、全体のお話を通して感じられる手を動かすことに価値を置いているようなというか、実際に泥臭く何かを作ってみたりというような、理念とか標語とか漠然とした問じゃなく「具体的なこと」の方を指向しているのが良いなあと感じました。

アートであったり人文系であったり、ともすれば空中戦になりがちな印象を個人的にはおぼえていて、その空中戦でのやり取りもそれはそれで非常に楽しいものだとは感じているのですが、一方でこうやって地に足つけた具体的な活動に根ざしているのは、個人的に親しみやすいなあと感じています。


「洒落臭く言えばウェルビーイング」という話も良い話だと思いました。 さっきから良い話だなあしか書いていない。

それが実際どのくらい有用か、人間がやる意味があるのか、 とかそういう方向性の議論だけでなく、 人がやることが意味があるんだという共通認識を作り上げていく、 自己正当化という形について。

思えば人生にしろ何にしろ、人間として生きていく過程はさまざまな体験や出来事に意味付けをしていく営みだったりするわけで。 そういう意味付けをして立ち位置を確立していくという行為が、すごい人間的な営みだなあと思いました。



最後のスライドのカメラの射影行列とかの話で、麦さんはこういう paper とかも好きなんじゃないかなと思いました。 あとは先日スペースでお話したときも変な歪んだカメラの射影の話とかもしてましたし。。。

これは昔のキノピオのアニメとかに使われていた背景をスクロールすることでカメラワークされた景色の中をキャラクターが移動しているように見せるための特殊なパノラマ状の背景画像を作る支援をするシステムの論文だったはずです。 読んだのははるか昔なのでちょっと記憶が曖昧ですが。

これはなんかカメラのオプティカルフローでカメラの流れを追いつつ画像を細切れにして接ぎ合わせるという感じだったと記憶していて、このシステムはあくまで手書きの背景の下書きに使うものです。 細切れの細切りのレンダリング結果を貼り付けることから最終クオリティに耐えられるほどきれいな接続とかは難しいのかなとか感じなくはないですが、こんな感じの不思議なレンダリングする感じの、映像制作に使ったら面白そうかなとか。

あるいは既にこういうのを使った映像はどこかでやられているのかもしれないですけれども。 カメラに映っているものを引き伸ばしてみたりとか、そういう映像表現はいろいろ見かけたりすることもありますし、そこまで目新しくもないかもしれないとは思いつつ。 とはいえこの表現は手書きのアニメの一枚背景を作るものということで、どこか手書き感のある背景とかを作るのには面白いかもしれないなと思いました。

昔、私が修士課程の学生だったときに歪んだパースみたいなのをちょっと調べていたことがあったので、このあたりのカメラの話をもっと掘ってみるのは面白そうだなあと感じた次第です。